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「BLUE_LIGHT」
Episode.0 不思議の国のアリス

08 わたしはだぁれ?

 ←07 ようこそ【不思議の国】号へ →09 女王の御心のままに

 ガシャン、と無機質の音が響いた。
 煤けた灰色の冷たい床に、暗い部屋。鉄格子越しに差し込むぼんやりした明かりがやけに視界をちらついた。

「クイーンの命令ですので、しばらくこちらに居てください」
「……」
「少しは、冷静な頭で考えられるはずです。落ち着いた頃に、また」

 膝を抱えて、どこを見ているわけでもないけれど、ぼんやりと宙を見ていた。
 カツカツと、ブーツの音を鳴らして自称イカレ帽子屋さんが遠ざかっていく。誰も、いなくなる。

 あぁ、あの人はなんて言っていたっけ?

 船だからか、ぐらぐらと体が上下に揺れる。くらくらと頭が回る。
 潮の香りが鼻をくすぐるのは、ここが海だから。知ってる街中なんかじゃない。
 知らない世界の、海に浮かぶ【不思議の国】号だから。

「ここは、【不思議の国】?」

 わたしはアリスなんかじゃないのに?
 ネバーランドに憧れたウェンディでもないのに?
 船が難破して流れ着いたドロシーでもないのに?

 そんなこと望んでなんかなかったのに。
 どうして、わたしはここにいるの?

「わたしは、誰?」
「さぁ? それ、俺が聞きたいんだけど」

 ふと顔を上げた先に、紫色の何かが映った。

 あれは何だろう?
 銀色の縦の何かが邪魔で、よく見えない。

「あなたは、誰?」
「さっき会ったじゃん。生きてたからまた会えた。でしょ?」

 生きてたから、また会えた。

 ……あぁ、そうだ。猫。
 生きてたらまた会おうね、とか言ってた、チェシャ猫さん。

「チェシャ猫、さん」
「そう、俺はチェシャ猫。でも本当に猫なんかじゃない。だけど猫に敬称付けは必要ない。ただのチェシャ猫」
「……チェシャ、猫」
「そう、チェシャ猫。て言うか、なんで死んだ魚のような目してるのさ? 船長になんかされたわけ?」

 船長……あぁ、クイーンさん。

 なにかされたわけじゃない。あの人とはただ話しただけ。
 わたしが、勝手に沈んでるだけ。

 ぐっと、膝に顔を押し付けた。
 涙なんか流れてきやしない。なんて無情な人間なんだろう。可愛くない。

「あれ? 泣いてるの? うわ、止めてよ。涙とか嫌いなんだけど」
「泣いて、ないよ。泣けない」
「ならいいんだけど」

 にやにやと笑われているような気がして、ぐっと唇を噛み締めた。

 痛いって、目から涙が流れれば、少しは落ち着けるのかな?
 少しは冷静になれるのかな?
 少しは自分が置かれた状況が分かるのかな?

 あぁ、頭がうまく回ってくれない。

「それで、あんた誰?」
「わたし?」
「そ。密偵とかじゃないのは明白だし、かと言ってただの人間かと思えばそうでもない」

 だって、ただの人間は空から落ちてきたりしない。

 ぼんやりと映る紫色を瞳だけ動かして見る。
 この人なら、分かってるのかな?
 わたしが知らないことも、知りたくもないことも。

「わたしは……、なんだろうね」
「誤魔化すつもり? 別にいいけど。尋問とかじゃないし」
「……分からない」

 ぽつりと、呟いた。

「分からない? あんたのことなのに?」

 そう、分からないの。
 どうしてここにいるかも、ありえないことがこんなにも起こるのかも、全部。
 わたしに起こったことが、理解できないの。

「じゃ、あんたの名前は?」
「な、まえ?」
「そう、名前。もしかしてそれすらも分かんないの? あんた記憶喪失?」
「わたしの……名前は……」

 どうしてこんなにも聞いてくるんだろう。
 どうしてわたしなんかに話しかけてくるんだろう。変な人。

 ぼんやりと頭を持ち上げると、金色の瞳と目が合った。

「……幸……」
「ユキ? それがあんたの名前?」

 こくりと頷いて、また膝に頬を押し付けた。

「ユキ。へー、ちゃんと良い名前持ってんじゃん」
「……別に」
「ふーん。で、なんで沈んでんの?」
「……」
「あれ? 無視? 俺なんかに言いたくないとか、そんな感じ?」

 分かってるなら、言わないで。
 わたしのことは放っておいて。一人にして欲しい。

 もう嫌だと、何回心の中で叫んだだろう。
 早く目が覚めれば言いと、何度願っただろう。
 家に帰りたいと、どれくらい思っただろう。

 きっと時間にして考えればそんなに時間は経っていないんだろうけど、ずっとずっとそればかり考えていた。

 誰かが助けてくれれば、どれだけ救われるかなんて。
 助けてと縋りたくなるなんて。
 正義の味方なんてどこにもいないのに。

「自分がなんなのか分からない。しかも空から降ってきた変な人間。返さなくちゃいけない指輪を持っている。でも、名前だけはちゃんと言えた。あんた、相当変わってるね」

 変わってるのは、本当にわたしなの?

「ま、俺だって人のこと言えないけど? でも、あんたに比べれば不思議要素が少なすぎるかも」

 変わってるのは、わたし?
 ……ただ、本が好きで、友達と話すことが好きで、ただの、女子高生やってるだけの、わたしが?

「ち、がう……」
「は? 何が違うって言うのさ?」
「違う! わたしは、変わってなんかない! わたしは……わたしは……!」

 わたしは……



「わたしは、何?」



 真っ直ぐに、見上げた。
 あぁ、頭がくらくらする。
 誰か教えて。

 わたしは何?
 わたしは誰?
 ここはどこ?

「あのさぁ、自己完結しないでくれない? 意味わかんない」

 飽きれたような声に、ゆっくりと紫色に視線を合わせる。

「ここはどこ?」
「【不思議の国】号」
「わたしは誰?」
「あんたはユキ」
「わたしは、何?」
「さあね、なんだろ? 人間なんじゃない?」

 わたしは、ただの人間の小娘。
 そんなわたしが、どうして。

「どうして、わたしはここにいるの?」

 知らない、そんなの。
 誰も知るはずがない。

 最低だ。
 わたしはこの人に理不尽なことばっかしてる。
 この人が何か知ってるわけでもないのに。

「……ご、めん……」
「別に? とりあえず、落ち着いたら?」

 くらりと、眩暈がした。
 気持ち悪い。
 右手で額を押さえて、頭を冷たい壁に押し付けた。

 ……本当は分かってた。

 穴に落ちたとき、海を見たとき、その時にはもう頭の隅で分かってた。
 自称イカレ帽子屋さんたちを見たときに、どこか確信めいたものを感じていた。

 一度浮かんだ考えが消えなくて、でもそれはあまりにもばかげてるって、ありえないって……。
 認めたくなくて、考えるのを後回しにしていた。
 認めるのが恐かった。

 ここはわたしの知っている場所じゃない。



 知らない《世界》なんだ

 ……って。



「……分かってたけど」

 それを認めると、わたしはただの夢見がちな子どもで、理想と空想と現実が分かってないように思えて。
 それがいけないことのように思えて。

 ありえないと、それだけで片付けたかった。
 信じたくなんかなかった。
 認めたくなんかなかった。

「……ここは、異世界……」
「は?」

 思わずと言ったように聞き返してきた声に、そっと紫色を見上げた。
 ちゃんと、顔が見れた。

 紫色の髪の、猫っぽい印象を受ける男の人。襟元が大きく開けられて、しなやかな筋肉がついた肌が妙に目立ってた。
 足に括りつけられていた拳銃ホルダーとか、腰にかかっている剣とか、見ないように努めていたものも、はっきりと見える。

 わたしが知ってる常識では、拳銃とか剣とかまず持たない。
 銃刀法違反で即逮捕だ。

「何それ、どういうこと?」

 さらりと揺れた紫色の髪のこの人も、貴族のような格好をしていた自称イカレ帽子屋さんも、クイーンと呼ばれていた船長さんも、現実離れしている容姿をしていた。
 それなのに言葉が通じる。

 これはもうファンタジー設定と無理矢理頭を理解させて、不承不承でも納得しないといけないんだろう。

 不思議の国のアリスみたいな子どもなんかじゃない。
 好奇心と冒険心だけで先に進めるような無邪気さも、純粋さも、何もない。
 今のわたしは、裏を勘ぐって、ありえないことに目を塞いでしまいたいと考えてしまう、大人と一緒。

 でも、わたしなりに認めなくちゃいけない。
 いつまでもこうしてはいられないから、目の前のこととちゃんと向き合わなくちゃ。

 さよならと日常に別れを告げて、
 いつか目が覚めるときにまた会おうと世界に約束して………。

「わたし、この世界の人間じゃないみたい」

 くらくらとする頭を押さえて、ゆっくりと口にした。

「は? それ、どういう意味?」
「信じてくれないかもしれないけど、ちゃんと話すから。ただ、その前に……」
「その前に、何?」

 額を押さえて、揺れる船壁に頭を押し付けて。
 わたしは切実に訴えた。

「……気持ち悪い」
「はぁっ!? ちょっ、船酔い?」
「くらくらする……」
「うわ、顔真っ青。待った待った、今なんとかって、ちょ、ユキ!?」

 鉄格子越しに慌てだしたその人の声を最後に、わたしはようやく意識を手放せた。

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